湿 地 の 基 礎 知 識


Biotop Profile】vol.1 ビオトープ概論


〜ビオトープの認識、フィット&ギャップ〜


◇ビオトープの定義◇

人工湿地としてポピュラーになってきた「ビオトープ」ですが、これほど解釈と実践に於いて誤解されている存在もありません。誤解によって悲惨な結果となっている事例は自分でも見られますし、各地で似たような事例が報告されています。(*1)
本来ビオトープとは何か、という定義が明確にならないと何が「誤解」であるのか分かりません。明確になっているのはビオトープ(biotop)という言葉はドイツで生まれBIO(生命)、TOPE(場所)を意味するギリシャ語から来た造語で意味は「野生生物のための生息空間」という程度です。
この意味を正しく解釈すればビオトープは我が国で見られるように湿地・水辺に限らず雑木林や草原、田畑も含まれることになります。現実問題水辺に依存しない野生動物は多いのでこの考え方は妥当ですね。従ってバッタやカマキリが住み着く草原やセミや甲虫が集まる雑木林の復元も立派にビオトープ建設に当たるというのが自然な考え方です。湿地植物を趣味とする世界ではややもすると睡蓮鉢で水草を育成することがビオトープであるという狭義の概念で語られがちですが(私自身の責任も認識しています)実は非常に広範な概念を持つ言葉であるのです。
さらに「野生生物のための生息空間」という意味を考えた場合、今度は「野生」とは何かという問題が出てきます。この問題は単独で定義を求めるのではなく、我が国も批准する「生物多様性条約」や具体的な施策である国内法「外来生物法(略称)」を視野に入れた解釈をしなければ非常に面妖な現象となってしまいます。この「面妖」な現象こそが上記の「解釈と実践において誤解」されている部分であると思います。

オオフサモはパロット・フェザーという名称でアクアリウム用プランツとして販売されています。逸出源はこの辺りと思われますが、この繁殖ぶりから栄養吸収が激しい、水質浄化に絶大な効果を発揮する植物であるという側面も持ちます。
この傾向は現在「外来生物法」で規制対象となっている、または選定リストに掲載されている水生植物に共通する特徴です。手賀沼などは固有種の水生植物が水質悪化によって絶滅した経緯があり、本来の水生植物を使ったビオトープによる水質浄化が困難な面もあります。もちろん水質浄化は植生によるものだけではなく、北千葉導水路の稼動や周辺下水道の整備に負うところもあります。
これらの、言わば「二次的生態系」を形成するに至った植物を除去した後に何が残るのでしょうか?水生植物が定着しない荒廃した水辺でしょうか。同じ環境省が主管する事なので、このあたりはぜひセットで考えて欲しいというのが個人的意見です。また、植生以外の手段による浄化を完了して後に固有種を植栽すれば良い、という考え方もありますが「浄化のために出来る事は何でもやる」に至った汚染の凄まじさも考慮する必要があります。

少し話をブレークダウンします。画像は手賀沼ビオトープに蔓延るオオフサモです。人為的に植栽されたものか逸出によって定着してしまったものか不明ですが、本種やオランダガラシ、園芸種スイレン、ハゴロモモ、マルバハッカなどの外来種が随所に見られます。(オオフサモについては上記外来生物法の2次選定種となっています)帰化種が蔓延っても植物であることに変わりはなく、様々な生物が定住しますし水生植物であれば水を浄化する機能もあります。もちろん特定外来生物として指定されたものは別ですが、この状態を是とするか非とするかで大きく事態は変わってきます。
このような外来水生植物が繁茂する水辺にアメリカザリガニとウシガエル(本種も指定されました)が居る、岸辺にはセイタカアワダチソウとセイタカタウコギの群落、どこでも見られる光景です。二次的、三次的かも知れませんがそこにはそれらの生物による生態系があります。「野生」を考える場合ここは難しい問題ですね。これらすべてを排除してしまうと荒廃だけが残る、という場所も多いでしょう。

◇国内移入を考える◇

本題の前に、自分で「ビオトープは水辺のみという考え方は誤り」と言っておきながら、どうしても話が水辺、特に植物に寄ってしまいます。サイトが「湿地探検」、興味の対象が湿地系植物ですので、そこはご容赦ください。極力見聞きした事例もお話するようにいたしますので。

さて、外来種のみならず国産種の移入によっても同様の問題は発生します。これには他の固有種を駆逐する繁殖力を持ってしまう生物がある、同種または近似種と交雑して地域性を失わせる場合がある、という2つの側面があります。どちらも大きな問題ですが、国産の固有種であるという点が盲点となっているのかビオトープでは良く見られます。

(1)他種を圧倒、優先種となる場合
他種を圧倒して優先種となってしまう代表はハスとヒシです。強力な繁殖力によって水面を埋め尽くします。近所の池では水面が見えないほどヒシが群生した場所がありますが、これでは他の水生植物、特に沈水植物は育つ余地がありません。里山系NPOではため池のヒシ刈は重要な活動となっている程です。(*2)従来無かった水域への両種の移入は厳に慎まなければならないと思います。
(2)ロカリティの重要性
同種でありながら地域性が強い生物の代表はメダカです。同じクロメダカという種でありながら遺伝子レベルでの差異が見られる様々な「型」(東日本型、瀬戸内海型など)があり、類似の「型」を束ねた「集団」(北日本集団、南日本集団など)まで分類が進んでいます。まだまだ研究途中のテーマであり未知の型の発見も期待されています。「国産メダカだから」という理由で放流してしまっては、結果がどうなるかは明らかですよね。

このように安易な移植、放流は多様性や地域性に大きなダメージを与えます。ビオトープ建設の際にはこの点の配慮が必要です。度々事例として出させて頂いて恐縮ですが、手賀沼ビオトープ(千葉県我孫子市)で見られる水生植物は上記のように帰化種が多いのですが、如何にこれまで述べて来た観点と相反するものであるかご理解頂けると思います。ただ、この事実によって手賀沼ビオトープや我孫子市を非難するつもりは一切ありません。意図的に植栽したのか逸出したものか不明だという点もありますが、手賀沼の場合は水質改善のため藁にもすがる時期があったのと、ホテイアオイが水質浄化の切り札的にもてはやされた時期もありましたので。この点は割り引いて考えなければなりません。(詳細は画像右の囲みをご一読下さい)

◇シードバンクの利用◇

ビオトープが本来どのようにあるべきかという事が薄々読めて来た方もいらっしゃると思います。手賀沼の話が出たついでに興味深い話を二つほど事例として書かせて頂きます。
ガシャモク(ヒルムシロ科)という植物は野生絶滅寸前かすでに絶滅したか、というレベルの植物です。手賀沼ではその昔他の水草とともに「藻上げ」で刈り取って緑肥にしていた程繁茂していたそうです。当時の様子は僅かに大滝末男先生の「水草の観察と研究」でうかがい知るばかりとなってしまいました。このガシャモクが護岸工事で撹乱があった際に一時的に復活しました。
もう一つ、手賀沼はその昔、車軸藻類の宝庫でもあったそうですが、当サイト相互リンクサイト「車軸藻のページ」の管理者でもある森嶋先生が底泥に眠る胞子を求めて再生を試みたところ、何と絶滅種であるテガヌマフラスコモが復活しました。

この2つの事例で分かる通り、「日本一汚れた」状態が20年続こうと、土壌中には休眠種子や胞子が眠っています。眠っているどころか場合によっては層を成している場合もあり、まさにシードバンクと呼ぶにふさわしい宝です。この状況は水田でも同じであり、私自身の伝聞、経験でも20年ぶりの復田によってスブタが発芽したり、農薬使用を止めた近所の田んぼで初めてミズネコノオやホシクサを発見したりしています。
ただしシードバンクは恒久的なものではなく、種によって差異はありますが概ね30〜50年の寿命と言われています。この眠っている種子の調査が本来そこにあった植生を特定する有力な方法となっています。(*3)このような方法を使い、本来の環境を蘇らせるビオトープが本来の姿なのでしょう。
批判を覚悟かつ水質浄化とセットで考慮しなければならない事を認識した上で断言しますとビオトープは自然再生に他ならず、この場合の自然とは本来そこにあった自然と限定すべき、というのが私の意見です。鷲谷先生(著書は下記)の仰る「自然再生」がビオトープの理念であると考えています。

◇触れ合う自然と倫理感◇

触れ合う自然、という考え方があります。私自身も自然を趣味としておりますし、子供達に自然のなかで色々な体験をさせることは大賛成です。でも野放しに自由に触れ合って問題は無いのでしょうか。ビオトープに限らず保全された自然環境と、ある程度の自由が認められている公園では大きな違いがあります。違いを顕著に表わしているのが次の2つの事象であり、そこには根深い問題が内包されていることに気が付きます。

(1)可哀想という発想の貧困
飼育していて大きくなり過ぎたミドリガメ、不要になったホテイアオイ。子供と一緒に処分しなければならなくなった場合、余程納得させられる理由が無い限り殺したりゴミにすることは難しいでしょう。難しい部分を避け「可哀想」という非常に安易で貧困な価値観のもとに放流が行われてきた事実が今までの帰化問題の大きな部分を占めています。
敗戦後の食料問題のために移入されたアメリカザリガニ、ウシガエル、スクミリンゴガイと、楽しみのためのペットやゲームフィッシュは自ずと性格が異なります。楽しみの部分のみを考え、その後の困難を避けるのでは精神的に成熟していないと言われても仕方がありません。犬猫以外の愛玩動物、観賞用植物は今後多くが外来生物法(*4)によって規制されると思いますが、規制されていなくても命を扱う困難さを認識しなければ飼育、育成する権利は無いと思います。
(2)禁止をしなければならない苦汁
精神的に成熟していない国民と言われるもう一つの理由は公園や緑地を歩けば分かるゴミの投棄の問題です。自然からの受益者であるはずの釣り人がマナーに於いて問題があることは、水辺を見れば分かります。弁当の殻や空き缶は全部が全部そうではないのでしょうが、練り餌の空袋やソフトルアーなどが散乱している光景は珍しくありません。また採集に関しては、金銭的な理由も絡むので尚厄介です。高額で取引される山野草は盗掘の話が後を絶ちません。カンアオイ、カザグルマ、野生蘭、テンナンショウ・・・野川公園では「カラスビシャク採集禁止」の看板まで見ました。採集する気持は分かりますが、ルールを守れなければ単なる犯罪です。生息環境を汚す、根こそぎ採ってしまう、禁止をしても起こってしまう事態はひとえに精神の貧困故、と思います。
つまり触れ合う自然を許容できるほど我が国では自然に対する精神が成熟していないと思われます。本来誰でも見学出来て、余裕があれば小銭を募金してくれるぐらいの心があれば維持発展できる環境はまだまだ沢山あります。

尾瀬や釧路湿原はラムサール条約にも登録され、維持の重要性について国民的合意が成されていると思いますが、上記で述べたような事態は都市周辺にある二次的自然環境で起きています。二次的自然も立派な自然です。生物多様性という観点では水田も立派な自然です。
このような考え方を「自然保護原理主義」と呼ばれることもありますが、ビオトープ建設・維持も原理は「多用な生物の生息空間の建設」でそれ以外の目的はありません。多様な生物を見学する、採集が許された動植物を採集、飼育する、これは目的ではないのです。「触れ合う自然」が成立しない以上、触れ合うためには最低限ではなく、考えられうる限りのルールを作り、守らなければならない、という事です。こうなってしまう原因はたった一つ、倫理感の欠如です。
ルールを厳格にして運用する、同時に現状の理解者、賛同者を一人でも増やす、ビオトープ建設維持に於いても背骨が無ければ「こんなビオトープはあかんやろ!」(*5)です。


参考

【文献】
生態系を蘇らせる 日本放送出版協会2001 鷲谷いずみ
自然再生―持続可能な生態系のために 中公新書2004 鷲谷いずみ
田んぼビオトープ入門 農山漁村文化協会2005 養父志乃夫
ウェットランドの自然 保育社1995 角野康郎・遊麿正秀
ビオトープ 誠文堂新光社2004 近自然研究会
自然生態修復工学入門 農山漁村文化協会2002 養父志乃夫
近自然学 山海堂2004 山脇 正俊
【Webサイト】
日本ビオトープ協会
野生メダカのホームページ
車軸藻のページ
珪素鳥の部屋
アサザプロジェクト
seedsavers Australia

脚注
(*1)誤解に基づくビオトープ建設と失敗
このような事例は枚挙に暇が無いのですが、和歌山県で行われた愚挙とも言える事例を客観的に解説しているWebサイト「珪素鳥の部屋」が非常に参考になります

(*2)ヒシ刈
茨城県土浦市のNPO法人「宍塚の自然と歴史の会」では【大池の多様な生物保全のための活動】と位置付けられたハス・ヒシ刈が重要な活動の一部となっています。小さな池では放置すればハスとヒシに水面を覆いつくされ他の水生植物は絶えてしまいます

(*3)シードバンクを用いた再生
具体的な成果については森嶋先生の「車軸藻のページ」が参考になります。(参考Webにリンク)現在手賀沼周辺で見られなくなった多くの水草、車軸藻の復活がなされています
自然再生をテーマとした文献でも最近では必ず触れられている方法論です。

(*4)外来生物法
正式には「特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律」という呪文のように長い本名を持つ法律。生物多様性条約批准国としての具体的取り組みと、いつまでも成熟しない国民の精神に業を煮やして出来た法律。法の精神、趣旨は正義に満ち溢れるが生物選定の過程にやや疑問を感じます。良法か悪法か今後の展開次第ですが、どちらにしても刑事罰を伴う法律であり遵守すべきものです。

(*5)こんなビオトープはあかんやろ!
上記参考Webサイト「珪素鳥の部屋」のコンテンツ名称を借用させて頂きました。和歌山県のみならず全国的な傾向となっています。


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送