要するに閉鎖性かつ排他性を剥き出しにしている点で世間一般ではいわゆる「非常識」なのである。ある意味「非常識」も壊れ方の一表現であるが、非生産的なネガティブな壊れ方である点が偉人の壊れ方と本質的に異なるのだ。もはや自由な雰囲気もなく硬直化しているので第二第三の牧野博士を受け入れる余地はないのだ。
ちなみに牧野博士の同時代人で前章でも触れた南方熊楠が東大予備門(当時)に入学した際の同期性は夏目漱石、正岡子規、秋山真之、山田美妙、本多光太郎・・・。凄いメンバーである。夏目漱石や正岡子規は誰でも知っているが、秋山真之は日露戦争で主導的役割を務めた海軍参謀、山田美妙は文学に言文一致体をもたらした先駆者、本多光太郎は永久磁石鋼(KS鋼)を発明した物理学者である。時代背景があったにしても自由と個性が花開いている。少なくても開成や桜蔭から東大に行って官僚になりたい集団ではない。
今や成功は個人の幸福と直結し、その道筋もある程度固定的であると愚考するのである。当時の「成功」の概念には前提として「国家」があり、良し悪し左右は別として国家のために事を成すのに方法論は自由、パラサイトも然り、という雰囲気があったと思う。それは同時代人である秋山真之、正岡子規を主人公とした「坂の上の雲」に登場する有名無名の人物像から読み取れる。国家のために成すべき事があり、アプローチは手法を問わない、これを許容する懐の深さが明治日本の礎であったと思う。別に明治時代まで遡らなくても戦後JFKが「国が何をしてくれるかではなく、自分が国に何をできるかを考えろ(Ask not what you country can do for you,ask what you can do for your country.)」と言っているではないか。
てな事を書いていると右側に傾いてしまうが、それは「国家」という字面が自ずから醸し出す雰囲気であって「社会」と読み替えたらどうだろうか。どんな立場でも何らかの社会貢献をする、と言えばご理解頂けるだろう。その思想を色濃く持っていた方々、時代背景だということである。人物を語り評価するのに時代の「空気」が抜ければ真実は分からない。これは「逆説の日本史」の著者、井沢元彦氏の考え方である。
「パラサイトで好きな研究が出来たので成功した」という見方は現代の見方であって、当時の第一義的な価値観は国家(社会)に貢献することであり、方法論、経済的背景は評価外だ、ということなのである。その辺りが現代のヲタ共と一線を画しているのである。
次に来たれり
これだけ広範に、言ってしまえば常軌を逸するレベルで深く植物を分類し現代に至るまで標本DBが残っているのに、我々の如く半端な知識と断続的行動力を持つ植物愛好家にはやや不満があるのも事実である。それは「半端に深入りした成果」に完全に応えてくれず、場合によっては謎が深まってしまうからである。
具体的に事例をあげてみよう。件のアオヒメタデとヒメタデ、である。ひょんなことから調べ始まったヒメタデ、アオヒメタデについては有象無象の図鑑群から市立図書館の最奥に鎮座する門外不出の牧野植物図鑑、ネット上のリソースまで精査した結果、はっきり言えば分からない。
このタデ科植物、牧野標本館にあるやや小さなヒメタデの画像がどう見ても渡良瀬のアオヒメタデと同じに見えるのである。そして牧野標本館、植物図鑑上にアオヒメタデは無い。当該標本がシノニム、誤認、未知の種の可能性を正確に網羅していないことは十分考えられる。なにしろ栃木県の片隅で「変わったコウホネ」が新種シモツケコウホネ(Nuphar submerusa Shiga et Kadono)として記載されたのは2006年のことである。渡良瀬遊水地のツリフネソウがワタラセツリフネソウ(Impatiens sp. )として新種記載されたのは2005年である。ちなみにこのワタラセツリフネソウを発見した大和田真澄氏も渡良瀬のアオヒメタデとヒメタデの種としての懸隔を指摘しておられる。まだまだ植物は可能性に満ちた海、なのである。可能性の海に完全な羅針盤を求めるのが不満の元。逆に言えば牧野博士が完全に網羅してしまっていたら後世新たな発見もなくつまらないのである。