遠 近 法 的 野 外 学

Perspective of Wetland】Impression5 車軸藻帯の消滅

〜多様な生態学のクロスポイント〜

Special Thanks
山室真澄先生 山室真澄のホームページ http://staff.aist.go.jp/m-yamamuro/
森嶋秀治先生 車軸藻のページ http://www.joy.hi-ho.ne.jp/nitella/index.html
渡邊信先生

◇謝辞◇
2006年8月に、相互リンクサイトである森嶋先生の「車軸藻」のページにご訪問させて頂いたところ、独立行政法人産業技術総合研究所の山室真澄先生が掲示板上で車軸藻を探しておられる旨、書き込んでおられました。
水辺関係の論文アーカイブで山室先生のご尊名は存じ上げておりましたが、現在は車軸藻の絶滅原因と農薬の因果関係を調査されているとの事、また同じ県内に在住されているという親近感もあって居住地近辺の車軸藻の自生状況などをレスさせて頂きました。数次会話を重ねるうちに、雑誌「遺伝」6月号に掲載された筑波大の渡邊信先生の著作「湖沼環境保全における絶滅危惧藻類 −車軸藻類の役割−」をご紹介下さる、というお申し出を頂き、あつかましくも拝読させていただく機会を頂戴いたしました。
この論文はオランダの湖沼の再生事例や国内の湖沼の調査データなどをもとに、主にリンの流入による車軸藻帯の喪失を取り上げたもので、研究者ではない私にも非常に示唆に富んだ内容でした。ご紹介頂かなければ雑誌名を見ても手に取ることもなかったでしょう。
山室、渡邊両先生にこの場をお借りして深く御礼申し上げるとともに、僭越ながら民間NPOとして現場の視点から見た湖沼の問題をここにご報告させて頂く事で謝辞とさせて頂きます。

◇車軸藻のある場所◇
森嶋先生がご指摘になったように、いわゆるシャジクモ(Chara braunii Gmelin.)なのかフラスコモ属(Nitella)を含めた車軸藻類なのかで話は変わってきます。しかし、あえて本稿では区別しません。特に学名表記が無い場合、車軸藻全般という意味でご理解ください。

車軸藻のある場所を端的に表現した言葉として「車軸藻帯」というものがあります。明確な定義は見つかりませんでしたが、おしなべて「一般の水草より深度のある湖底」に形成されると表現されています。なぜ光合成に有利な浅水域ではないのか、これまた明確な理由は分かりませんが、他の沈水植物との競合(アレロパシーなど?)なのか、重炭酸を利用することで質量の大きな重炭酸が深部に集まるためなのか、なにかしら理由はあると思います。どちらにしても植物が生育できる限界深度として表現されることが多いようです。
この車軸藻帯は深度のために到達する太陽光は微弱であり、湖沼の透明度に直接影響を受けます。すでに何回か解説させて頂いた「湖沼のカタストロフィック・シフト」のプロセスでは、かなり初期の段階で影響が見られる部分ではないかと考えられます。

(1)湖沼への窒素・リンの流入(生活・農業・工業排水)
(2)植物プランクトン、藻類の増加と透明度低下(導電率上昇)
(3)植物プランクトン、藻類の二酸化炭素消費に伴う水質の塩基化
(4)高等植物の死滅による湖底土壌の無酸素化、嫌気化
(5)湖底の無酸素化による底棲生物の死滅

そして(5)によって湖沼の浄化の大きな部分を占める機能が喪失、カタストロフィック・シフトが完結します。
カタストロフィック・シフトとはまだ一般的な用語ではありませんが、鷲谷いづみ先生(東京大学大学院農学生命科学研究科教授)がよく使われる用語で、生態系の不健全さと表現されます。言葉通り「崩壊」で完結しますので、一度この状態となってしまえば栄養塩を除去するといった単純なプロセスでは元に戻りません。
手賀沼を例にとれば、マシジミまで絶滅していますので(5)の段階まで行ってしまいました。完全な生態系の崩壊です。森嶋先生はそんな手賀沼の底泥の休眠胞子から絶滅種テガヌマフラスコモ(Nitella furcata Agardh var.fallosa(Morioka)Imahori. )を復活させましたが、かなり綺麗になったという現在の手賀沼でも車軸藻はもちろん、汚染に強いササバモなどの沈水植物も見られません。
税金の使い道、という観点で見れば巨額の費用をかけた北千葉導水路など、現時点では植生の復活という点では何ら役に立っていないと言えます。役に立たないと言うよりも、一度崩壊した湖沼を元に戻すのは不可能であるとは言いませんが、文字通りカタストロフィー、崩壊したものの復旧には多額の費用と歳月、そして叡智の結集を必要とする、ということです。

余談はさておき。このように湖沼の車軸藻帯の喪失と富栄養化の因果関係が証明できると思いますが、渡邊先生の論文にはこの点を実態面から調査したデータも記載されていました。
1960年代に行われた各地の湖沼の車軸藻調査に比し、90年代に同じ湖沼でどうなっているかという非常に興味深い調査資料です。言うまでも無く60年代〜80年代は高度成長期として湖沼への流入排水の影響も大きくなったと推察されますが、同時に公共投資の増大により護岸工事も盛んに行われた時期でした。護岸と植生の関係については拙作「ビオトープ各論 護岸と湖岸湿地」に詳述いたしましたが、自然環境にとっては大変動期であったこの時期を経験した湖沼の状況はどうだったのでしょうか。
90年代以降、私が最近実際に見た湖沼、猪苗代湖、霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼、芦ノ湖、河口湖、諏訪湖では車軸藻は絶滅したか、大幅に数を減らしていることが読み取れます。特に首都圏近郊の霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼に於いては90年代の調査では確認されておりません。この事実は半ば恒常的にこれらの湖沼を歩いている私にとって説得力を持ったデータです。

◇水田の車軸藻◇
湖沼の惨状に比べて水田では比較的容易に車軸藻を見ることができます。森嶋先生によれば、水田に自生するのはシャジクモ(Chara braunii Gmelin.)がほとんどであり、他種があまり見られないことから他種が絶滅したというよりもシャジクモが水田で自生できる条件を備えているのではないか、ということです。
たしかに近隣の水田で見ることの出来る車軸藻はシャジクモ(紛らわしい)であり、形態によって分類が容易なフラスコモ属は見たことがありません。シャジクモ(Chara braunii Gmelin.)は遷移の激しい水田環境で生き延びるなんらかの能力を持っているのかも知れませんね。
他稿と重複になりますが、見ることが出来る水田は「乾田」です。中干しも行います。沈水の自生形態である車軸藻はこの点で非常に生存のための条件がタイトになります。関東地方基準で言えば水田に水が入る5月上旬から中干しが行われる7月中旬までの2ヶ月間という短期間に卵胞子からの発芽、生長、生殖を行い翌年のために卵胞子を残さなければなりません。
また、発生の見られる水田が一定しない(昨年あった水田に無く、無かった水田に出現する)ことから、このサイクルは天候、気温、微妙な中干しの時期の相違などにより容易に崩れる、さらに発生条件が整ったなかでもある程度の休眠胞子を残していることが伺えます。(このような動きはヒルムシロの発芽率2%など水生植物に多く見られますが、保険としか思えません)
あまり相応しい言葉ではありませんが自然度という点ではどうでしょうか。これは意外な事にまったく関係が無いのではないか、と考えています。近隣の数多い水田でも「自然度」の高い水田があります。具体的にはミズネコノオ、ホシクサ、サワトウガラシ、ウリカワ、スズメハコベなど絶滅危惧種を含む希少な植物が自生する水田ですが、意外なことにこの水田ではシャジクモ(Chara braunii Gmelin.)は見られません。
この事実から前項の他植物との競合、特にアレロパシーの影響を受けやすいのではないか、と仮説を立てました。画像で見る通り、この種が繁茂するのは他の植物がまばらな水田に多いようです。もちろん仮説ですので因果関係は証明されておりません。

◇車軸藻の生理〜生き残り戦略◇
山室先生のご教示で「車軸藻はHCO3を利用できる」とありましたが、このご教示は別な意味で大きなヒントとなりました。弱酸性でしか生育できない沈水植物については最近のテーマとなっており、各所に駄文を発表させて頂きましたが、見方を変える必要もあるのではないかと感じました。
水中のHCO3-、重炭酸イオンはCO2の溶存量と比例します。すなわち、溶存二酸化炭素が豊富な環境、つまり他の沈水植物が繁茂できる湖沼でのみ車軸藻帯が形成されるのではないか、と。この点は前出渡邊先生の論文中、オランダの湖沼の車軸藻帯再生のプロセスに於いて、ヒルムシロの繁茂と比例する車軸藻の繁茂がグラフで示されており裏付けられると思います。他種の繁茂する環境で尚且つ他種との競合を避ける、こう考えると車軸藻帯の存在が非常に納得できるものであると思われますが如何でしょうか。

次に車軸藻自体の植物生理の話ですが、山室先生にご教示頂いたサンゴの光合成と石灰化の同時進行のお話、森嶋先生に補足して頂いた車軸藻もよく石灰を付着させるという話ですが、ここに車軸藻の二酸化炭素調達の方法についての重要なヒントがあると考えています。
「石灰」と称される物質には何種類かありますが、(生石灰、消石灰、石灰石)このなかで光合成と関連して生成されるものは石灰石(CaCO3)です。炭酸カルシウムとも呼ばれます。このサイトの記事「二酸化炭素添加概説」で高pH域で自生する植物の二酸化炭素調達源を従属性遊離炭酸ではないかと示唆させて頂きましたが、この現象はピタリと符合します。

CaCO3+CO2+H2O ⇔ Ca(HCO3)2

化学式を再録させて頂きますが、上記は浸食性遊離炭酸(CO2)と従属性遊離炭酸の関係を示した式です。車軸藻が従属性遊離炭酸からCO2を分離して利用できる機能を持つとすればH20(水)以外に炭酸カルシウムが析出されます。限りなく正解に近いような気もしますが、決定的に欠落しているのは果たして車軸藻がこの機能を備えているかどうかという点です。かなりの文献をあたってみましたが、この点を明記した記述は見つかりませんでした。(*)
仮説を現象面から裏付けるとすれば、セキショウモなど高pH域で生長を見せる水草の周辺で石灰化の現象を見つけることだと思います。これはいずれ私のフィールドワークのテーマとして研究してみたいと思います。
どちらにしても、重炭酸と従属性遊離炭酸が光合成に利用可能であれば、他の高等植物との競合が二酸化炭素調達という重要な部分でも避けることができます。ここに車軸藻の生き残り戦略が見えるような気がします。

(*)私のブログ上で水田プランクトンの研究者いたちむし先生より、カイミジンコは車軸藻を好むとご教示いただきました。貝殻形成のためのカルシウムを炭酸カルシウムに求めているとすれば話は符合いたします。貴重な情報をありがとうございました。

◇喪失と維持の意義◇
車軸藻帯は沈水植物の生育可能な限界深度と称されるほど湖沼の深い部分に生成されます。車軸藻帯の喪失は生態学的なカタストロフィック・シフトの初期の段階、植物プランクトンや懸濁物質の増加によって容易に喪失するという推論が許されると考えます。この点は渡邊先生の論文によっても裏付けられるはずです。
従って山室先生の、湖沼で車軸藻が見られず水田で見られる理由についてのご質問ですが、霞ヶ浦、北浦、牛久沼、印旛沼、手賀沼、茨城県南部〜千葉県北部の湖沼に於ける汚染の実態である程度回答とさせて頂けると考えています。もちろん森嶋先生がご指摘になったように、水田で見られるシャジクモ(Chara braunii Gmelin.)が湖沼にどの程度分布するのか、シャジクモ科他種の植物生理が本種とどう異なるのかという点も本説を証明する過程で必要となる情報であることは間違いありません。

雑誌「遺伝」の論文中、何のために絶滅を防ぐのかという疑問に対する回答で苦慮されているようにお見受けいたしましたが、まさに生物多様性の意義に直結するお話でもあります。「車軸藻が絶滅するとどうなるのか」「人間になにか関係があるのか」短期的に見れば何ら関係ないでしょう。車軸藻を人間が利用しているのはアクアリウムで育成するか、理科の実験で原形質流動を見るためか、無くても良い程度の利用方法です。
しかし、車軸藻に限らず現存する生物すべからく固有の遺伝子を持っています。このなかから人類の未来に多大な影響を与える遺伝子が発見される可能性は限りなく大きいのです。単なるアオカビから産出されるペニシリンをはじめ、抗生物質がどれだけ人類に貢献してきたかを考えれば、現存する生物の多様性を維持することは非常に意義があることであって人類共通の価値観であることを否定できません。この意義を謳った生物多様性条約の序文こそが破壊と絶滅を繰り返して来た末に辿りついた叡智であると思います。


【参考】
「車軸藻」のページ 掲示板上の山室・森嶋両先生のご教示
・雑誌「遺伝」2006年6月号 渡邊信「湖沼環境保全における絶滅危惧藻類 −車軸藻類の役割−」


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