湿 地 の 基 礎 知 識 |
【Wetland Profile】vol.8 Case Study 消えたふじみ湖 〜多様な価値観の隙間〜 |
◇ふじみ湖◇ |
霞ヶ浦、北浦、涸沼など比較的「汚れた」湖沼を多数抱える我が県に、奇跡的に美しい湖「ふじみ湖」がありました。ふじみ湖は残念なことに現在は見ることが出来ませんが、彷徨える湖ロプノール(*1)のようにどこかに行ってしまったわけではありません。人間の手によって意思を持って潰されてしまいました。美しい湖がなぜ潰されなければならなかったのか、そこにどのような論理が働いたのか、事実経緯を追い、客観的に考えてみたいと思います。 先にダイジェストを説明すると、採石場跡(*2)に湧水が出て出来た茨城県笠間市の「ふじみ湖」は廃棄物処理場建設のために埋め立てられ潰されてしまいました。 採石場跡であるために水深があり、湧水であるために透明度もあり写真で見る限り他の湖沼に無い美しい佇まいの湖でした。「関東の摩周湖」とも称されていました。 生態学的にも非常に貴重な動植物が多かったようですが、これは庭に置いた睡蓮鉢程度にも2〜3年で様々な生物が集まることを考えれば当然であり、後に詳述しますが図らずもビオトープの理念が大規模に実現した、国民の共有財産であったはずです。 普通に考えればこのご時勢、美しい自然環境を潰す開発は自然破壊と非難されて然るべきですが、一方地方都市と言えども増加の一途である廃棄物の処理問題は早急に解決しなければならない課題であり、現に首都圏で処理しきれない廃棄物を闇に紛れて他県に搬入したり、不法投棄が問題となったり、環境に負荷をかけています。処分場の建設はある意味「環境に負荷をかけないため」の方策であるとも言えます。ただ「よりによって」という点がクローズアップされ大きな騒ぎとなりました。 概して、ですが建設に反対運動が起きるのは火葬場やゴミ処分場で、地域住民にとっては居住地の大きなマイナス要因となってしまいます。必要であるはずなのですが身近には置きたくない、こんな心理もあります。仮定の話ですが笠間市でも家庭のゴミが収集されない事態となれば騒ぎはより大きな、また性格的に別なものになっていたはずです。建設にあたっての地権の問題、言い換えれば権利の問題もあります。 諸権利や施設の必要性を無視して「なんでもかんでも自然を守れ!」と騒ぐだけでは○○丸出しです。(○○には適当な言葉を入れて下さい^^;)以前「自然には何も足さず引かない」という原理原則的なお言葉を頂き私なりに反論いたしましたが、人間が生きて行く上で自然から恩恵を受けている以上、この言葉単独では大きな矛盾を内包してしまいます。そこに「極力」とか「不要な」という言葉を追加すれば理解できなくもありません。 ただし、この「極力」「不要な」をどこで線引きするのかは立場によって変わります。様々な立場の合意形成がなされないまま走ってしまった、という事が最大の問題点なのかも知れません。個人的には暴挙であると思いますが、それは私が自然に関連した趣味を楽しんでいるからであって、「ではお前はゴミを出さないのか」と言われれば一言もありません。この点に関してはグリーンピース・ジャパンが企画したセントローレンス大学(米、ニューヨーク)のポール・コネット博士の講演会ダイジェストを読みましたが、正直「ゴミを出さない」、「焼却するのは時代遅れ」という論点がよく理解出来ませんでした。取組みとして継続しなければならないことは分かりますし、具体的取組みも始まっているはずですが、ふじみ湖を保全するという時間軸が限られた問題に関しての言及としては如何なものなのでしょうか? 原理原則論は全地球環境を考える上で無くてはならない要素です。しかし目前に迫った環境破壊に対して迂遠な一般論にも感じられることは事実です。ということで原理主義的アプローチ、○○丸出しではなく出来るだけ客観的にこの問題を考えてみたいと思います。 <<美しいふじみ湖の画像はふじみ湖プロジェクトYのWebサイトに掲載されています。非常に遺憾ながら訪れる機会の無いまま失われてしまい画像がありませんのでこちらをご参照ください>>
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◇ふじみ湖「水溜り」説◇ |
事実経緯の主なところは以上です。もちろん美しい湖を潰すわけですから激しい反対運動も起こり訴訟まで行きましたが結果的にふじみ湖は失われました。反対運動の主体、内容については主題ではありませんので割愛いたしますが、Web上に公開された裁判の第一回公判の意見陳述書(塙清一氏)には自然環境よりも健康被害への懸念、地区としての利益が失われる懸念が主旨として読み取れます。(この点に関して批判をしているわけではありません。地域住民としての当然の主張であると思います) 第6回公判の意見書(小林暁子氏)では景観、自然といったキーワードが登場し、静謐な水について飲料水不足の現状にも言及しておられます。地域の利益、景観、自然、飲料水、どれもまっとうな要素であって自然な要求だと考えます。 これに対する事業団側(行政そのものも登場します)の対応は客観的に見て酷いものでした。 特に番組名は忘れましたがTVの特集で放映された笠間市長や茨城県職員の傲岸な態度には強い怒りを覚えました。特に「すでに決ったこと」を前面に、住民側がなぜ異を唱えるのか?という姿勢が感じられ、行政側であることが何らかの特権であるかのような物言いもありました。幾多の経緯を示す資料にもある部分ですが、 推進者側はふじみ湖を湖として認めず、「水溜り」とし、湧き水も否定している という論点であったようです。(*3)湧水云々は前出第6回公判の意見書にある飲料水に対応した反論でしょうが、採石場時代から湧水があった事実があり解しかねる部分です。事実ふじみ湖原告団のWebサイトによればふじみ湖の埋立以降、井戸水の水位低下が甚だしく生活に支障も出ているようです。(*4) もっと簡単に「湿地を潰すかどうか」という価値観で考えた時に、より端的な議論に置き換える(すり替えではなく)ことが出来ます。ラムサール条約です。日本は1980年に釧路湿原を嚆矢として加盟していますので行政側はこの精神を遵守すべき義務があるはずです。 もちろん湿地は登録制ですので登録地以外の水湿地について具体的な取組みは謳われておりません。ただ、外務省が本条約に関してWebサイト上で(下線部外務省HPより引用)「今回の登録に際してはわが国を代表する多様なタイプの湿地を登録するとの方針のもと、マングローブ林、サンゴ礁、地下水系、さらには水田を含む沼地、アカウミガメの産卵地などこれまであまり登録されてこなかった形態の湿地を条約湿地に指定した。このような我が国の取組に対する条約事務局及び他の締約国からの評価は高い。」と誇らしく語っている背景、その他環境関連の生物多様性条約の意義等を勘案した時に、果たして湖を潰すことが「湿地の賢明な利用」になるのかどうか、非常に疑問です。ラムサール条約では湿地の定義に関し自然発生と人為的なものの区別を付けておりません。また水溜りであっても10年以上存在し続け、生態系が出来上がっているものは一般的に「湖沼」です。 要するにより端的な議論とは水溜りか湖かという言葉の遊びではなく「湖を潰すことが湿地の賢明な利用に該当するのかどうか」ということなのです。そしてその精神は条約批准国の政府として遵守しなければならないものであり、地方自治は治外法権と同義ではない、この点は留意が必要です。はっきり言えば推進者側は本質を誤魔化し、国際条約の精神を踏みにじっています。(*5)
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◇裁判のからくり◇ |
さて、推進者側の論点にある「ふじみ湖を湖として認めず、「水溜り」とし、湧き水も否定」は幾多の反対派サイトは証拠をもって否定しており、雨水のみであればあれだけの水量の湖(水溜まり、ですか:苦笑)が成立することがないのは自明です。しかし現実には推進者側の主張が通り、財団法人茨城県環境保全事業団「エコフロンティアかさま」は稼動しています。裁判まで行ったのに?被告側の主張に反する証拠もあるのに?と思われる方も多いかも知れません。 昨今非常な法律ブームで、タレント化した弁護士が出てくるTV番組もありますし、日常で困ったことを相談できる市役所の無料相談会も相談者が多く、訴訟による解決が早道、と思われる風潮もあると思います。しかし、取得時効やら慰謝料の範囲など妙に細々した情報が一般化しつつある反面、民事訴訟についての大原則が今一つ理解されていないようでもあります。 民事訴訟は真実を証明することが目的ではない つまり刑事訴訟であれば「証拠」は「量刑」に直結しますので「真実の証明」には非常に慎重かつ広範囲な証拠集めが必要となる一方、民事裁判では証拠はより軽い存在となります。 自分自身も経験がありますが、民事裁判の第1回口頭弁論では出頭も必要なく、答弁書を提出すれば陳述したものと看做されます。(擬制陳述)そこであらかじめ相手方の主張(当方が被告になればあらかじめ特別送達という郵便で訴状が送られてきます)「事実」に対し、「訴因については争う」と書いておけば相手方の証拠を認めない、と主張することが出来ます。 例えばある人に30万円借しました、返してくれないので訴えました。借用書もありますが、相手方は借用書はウソだ(争う)と答弁しました。この場合、証明は原告側、つまり金を貸した方が行なわなければなりません。筆跡や文書の鑑定は非常に高額で場合によっては30万円を超えてしまいます。これも誤解されている方が多いようですが、こうした費用や弁護士費用(着手金として20万円程度)は裁判結果によらず還ってきません。こんな不合理があり、かつ裁判所側も人手が足りず民事裁判で世間の注目を集めるような重要事案でないものは「和解勧告」がなされます。 要するに「貸したのは事実のようだが、返済方法や期日も公正証書にしたわけでは無く落ち度もあるようなので、中を取って15万ぐらい返したら?」ってことです。それでも50万かけて赤字で真実を明らかにするより得だよね?ってことです。 さすがにふじみ湖の裁判は判決が出ましたし、裁判官も現地視察まで行い熱心に取り組んだようですが、判決の根底にはこういった心情もあったことでしょう。(*6)反対派は裁判には負けましたが否定はされていません。原告側の主張「廃棄物の危険性」については認められており、事業者側に釘を刺した結果にもなっています。こうした裁判の常ですが、原告支持の判決を出すには私有財産や自由な経済活動という「権利」に踏み込まねばならず、司法という観点から言えば非常な困難が伴ったことでしょう。例え裁判官の心象が美しい湖を守りたくても「些細な」証拠の不具合は憲法で保障された権利を覆すまでには至らない、ということです。 これは過去多くの環境保護系NPOが嵌って来た「合意形成なき保護活動」の典型的な例だと思います。相手が行政を含む事業者では困難も多々ありますが「あなたの自由な経済活動を阻害する」理由は「美しい湖」「多様な生態系」という大上段の正義ではなく、より具体的な代替案を持った話し合いです。合意形成は日本生態学会の活動指針にもある環境保全に於ける重要な概念です。 前項で触れた笠間市長や茨城県職員の傲岸な態度は逆に推進者側の「建設ありき」「議論の余地なし」という態度を図らずも電波に乗せて全国に知らしめる結果となりました。登山家の野口健氏は自身のホームページで(記事はこちら)で「しかし、人間っていつまで こんなバカげたことを繰り返すんだろうか・・・。茨城県知事や笠間市長はこの愚かな行為に対して、なにを思い、どのような経緯で決断したのか。彼らの政治家としての、また一人の人間としての哲学を僕は知りたい。水源地である「湖水」の水を抜き、そこに産業廃棄物を埋める行為など世界の非常識。日本は本当に先進国なのだろうか。環境行政は一体なにをしているんだろうか。時代の流れを読めない政治家達が舵取りしている事の恐ろしさ」(下線部引用)とまで言い切っています。(*7) まったく同感ですし、彼ら(政治家)にはラムサール条約の意義や箱物行政について聞いてみたい気もしますが、心情的に批判は出来ても法的な違反はしていない相手を裁判に引きずり出す戦略が正解であったかというと疑問です。「法律さえ守れば何をしてもよい」という相手は法律を守っていますので裁判は基本的に無力です。一部の反対派サイトにあるような本工事に絡む談合の噂は別として、野口健氏のいう「人間として」どうか、という所が重要です。工事を守るため「湧水は出ていない」と明らかなウソをついている、この部分は糾弾されて然るべきと思います。
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◇環境問題の分かり難さ◇ |
これまでの内容はかなり分かり難い文章になっていると思います。自分で書いていてもそうですから(汗)。一言で括るのは問題の本質を誤ると思うので関係者(環境問題に関心のある野口健氏や、もちろん私も含めて)それぞれの立場をくどくど書いて来たのです。 一つの問題「ふじみ湖を潰して廃棄物処理場にする」は、地域住民の立場では環境悪化を懸念する切実な問題、行政を含む推進者側の立場では急務となったゴミ処理の問題解決、提訴を受けた裁判所ではそれぞれが遵法かどうか客観的な判断を迫られる問題、論評する我々は環境破壊原則反対、とそれぞれ見方は異なります。例えば野口健氏の「茨城県知事や笠間市長はこの愚かな行為」(下線部引用)という糾弾とも取れる発言も、ではゴミ処分場の代替地の提案とスキームの見直しは誰がやるんだ、という反論を許してしまうと思います。 環境問題は立場によって物の見方、価値観が異なる「藪の中」です。また相手は自然環境なので、文中にあるような湧水の有無など明らかに「ウソ」であっても調査不足、認識が足りなかった、という言葉に置き換わります。動きの速い世の中、すでに忘れ去られているかも知れませんが諫早湾干拓の影響度は事前の予測説明と実際に発生した状況に甚だしい乖離がありました。もともと自然に手を加える事による影響度は神ならぬ身、あくまで「予測」の範疇であって誰も断言できないはずです。要するに反対派も推進派も誰も確信できない状況下で法的妥当性があれば進んでしまう、というのが実情でしょう。また、廃棄物処分場自体の建設に反対するのであれば廃棄物の処分方法も別途考えなければ結局は環境負荷となって還ってきますので同じ事になります。ゴミ処分に限らず電力、上水確保、ライフラインは環境負荷とセットであることは避けられません。 どちらにしても「国民の共有財産」である美しい湖を潰す理由としては大幅に不足しています。前出コネット博士は「世界に類を見ない」行為であるとまで言い切っています。(もちろんネガティブな意味で)「ご近所の手前」「世間体」は嫌いですが、外務省が誇らしげに謳う環境先進国としてどうなのか、という思いを禁じえません。様々な事象に理屈付けや正当化は可能ですが、結果はレジームシフトとして現れています。こうした湿地の破壊の積み重ねが「オーストラリアに雨が降らない」「琵琶湖の100倍のアラル海が干上がった」ことと因果関係がある、とは証明できませんが同時に因果関係が無い、とも証明できません。 それ以前に湖自体は人工物だが集まった生物は人工物ではない、生物が可哀想という子供の目線がこの問題の本質かも知れません。かくしてこの地で確認されたタガメ、ハッチョウトンボ、オゼイトトンボ、湿地植物に至ってはフロラも完備されないまま本件の一番の被害者として全ては消え去って行きました。
【参考文献・参考Webサイト】 ・環境問題のウソ 池田 清彦 2006年筑摩書房 ・環境問題はなぜウソがまかり通るのか 武田 邦彦 2007洋泉社 ・野口健公式ホームページ ・ふじみ湖プロジェクトY ・ふじみ湖原告団 ・茨城県保健福祉部衛生課水道整備グループ ・グリーンピース・ジャパン |
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