湿 地 の 基 礎 知 識


【生物多様性】7 放流問題に関する一考察


〜biodiversity7 心に折り合いをつけられるか〜


テーマの深度 心の問題

このWebサイトの記事、水辺雑文集の水辺の恐怖「逃げ遅れ救出隊」に関しご意見を頂戴いたしました。異なる場所に放流を行うことは取り残されるほど弱い遺伝子を残すことにつながるので反対する(大意)というご意見です。
このご意見に関してはまったく同意ですし、そもそもメダカの地域毎の遺伝子タイプや外来魚の放流による生態系の破壊は折に触れ書き続けて来ましたので私自身のスタンスはご理解頂いていると思っていましたが、念のため主なところを再録させて頂きます。

(1)動植物の国内移入は生態系のバランスを崩します
(2)外来種の放流は理由・種類の如何を問わず反対です
(3)外来生物法指定種は遵法精神により議論の余地はありません

私が書いた話は同一の連続した水域に取り残された魚類を移動させるものなので本質的に違う話ですが、読み方によっては異なる話に受け取られかねません。この部分、実はまったく違う思いがあり、よい機会ですので思うところを述べさせて頂きます。
放流に関しては色々なWebサイトが実に様々なスタンスを声高らかに主張しております。個別の論評は避けますが、おしなべて決定的に欠けている部分があります。誰に向かって言っているのか、という点です。サイトによっては原則などと大仰に語っていますが、正直なところ個人サイトが個人の思想を「原則」と称した時点で読む気を無くします。誰が誰に対して主張することなのか・・・。本家本元、環境省のWebサイトでさえも私が読んでもこの点に於いて意味がよく分からない部分が散見されるほどです。Webサイトという不特定多数の、均一なレベルを期待できない方々への情報発信は誰に向かって発信するかという点が重要で、さしたる実績もございませんが一応数々の会報等にこの分野についての文章を発表させて頂いている私としては、反論したい内容が多々ございます。一言で言ってしまうと誤解曲解雨あられでしょう。極力分かりやすく、かつ遠慮せずに発言させて頂くのが本文の主旨でございます。
ちなみに私はこの分野に於いて誤差は許容しつつ一定のレンジ、外来生物や遺伝的多様性について基本的な知識をお持ちの方を前提に情報発信しております。


放流の問題については環境への負荷、影響度を語る以前に「心の問題」を抜きには話が進みません。不要になったペットや植物を自然環境に放つ、我々的な感覚では極悪非道の振る舞い、かつ絶対的に避けるべき行為なのはスタンダードな価値観ですが、実は飼いきれなくなった愛するペットが自然のなかで少しでも生き延びて欲しい、という子供達の切ない行為であることが少なくありません。彼らの命を大事にする心と年齢なりの自然環境に対する不十分な理解という部分には前提となる環境への影響度という観点の原理原則は届きません。
象徴的な話としてブラックバスが外来生物の指定生物となった際に反対意見として、キャッチアンドリリースは命の重要性を云々という話がありました。環境保全の思想から言えば噴飯物の苦しい言訳と思えますが、意外に発言者は大真面目かも知れません。そもそもスタンスが違うのです。スタンスの異なる立場の人間に正攻法で話しをしても聞えないのです。パラダイムが違えば正論は奇論となり相互理解、つまり合意形成は進みません。
実は行政やNPOも程度の差はあれ同じような事をしています。「自然再生」と重い言葉を使うわりに園芸種の睡蓮を蔓延らせて「自然が戻った」とする姿、湖沼の浄化のためにホテイアオイを浮かべる管理主体、少し野外を歩けば様々な場所で簡単に見ることが出来ます。これは言わば「自然再生」という原理原則が執行者に様々な思いを想起させているためです。この分野に関わる人間でも原理原則を聞いて正しく理解出来る鷲谷先生や角野先生と同レベルの人間はそう多くありません。
理解とは何か、情報発信とは何か、原理原則で解決できるほど簡単な話ではないと思います。
価値観の共有はそんなに簡単なことではありません。放流はいけないという絶対的な命題さえも次項に述べるように時と場合により否定されてしまいます。絶対的価値観、原理原則でも結構ですが、そこから理解を広げるという合意形成のアプローチは間違いなのです。
私自身、未就学児童を含む子供達やその若いご両親にフィールドで水草関係の話をする機会がありますが、放流問題に関連してこのようなご質問を頂くことがあります。

飼っていたミドリガメや熱帯魚をなぜ放流してはいけないのか。命を大切にすると教わったが

上記のような絶対的価値観や原理原則でご理解頂けますか?象徴的に「子供」と書きましたが、年齢的な「大人」も世間一般の認識はこんなもんです。原理原則を主張する方はこの質問に的確に簡潔に合意できる内容で答える義務があります。こんな話もありました。

メダカの遺伝子が地域毎に違うのは分かりましたが、どう違うのですか?

正直私には答えられませんでした。もちろんどこかにあるような能書きを垂れることは出来ます。しかしそれは「遺伝子が地域毎に違う」という質問の前提を難しい表現で補完するだけで、「どう違うの」という質問の本質に対して回答できるわけではないのです。いわゆる「煙に巻く」ようなものです。
子供の(あるいは世間一般の)質問は実にシンプルで本質を突いています。「どう違うの」「違うのはどこの市からどこまで?」「メダカが勝手に移動することはないの?」素朴な疑問かも知れませんがお題目だけで納得して頂くことは困難です。
長々と書いてきましたが、専門的な立場からの原理原則、「モラル」と言い換えましょうか。これは年齢的、精神的な大人のものであって子供や世間一般の認識には通用しないのです。このようなジレンマから生まれ、専門分野として確立したのがインタープリテーションです。こちらにほんの触りだけですが、解説を書かせて頂きました。
環境系のNPOや研究機関が地権者や開発との軋轢を繰り返し無力に跳ね返されて来た苦闘の末の結論は「合意形成」なのです。生態学会の活動指針にも書かれている言葉です。そして合意を形成する相手は書いてきたような方々です。


逃げ遅れた生物を逃がしてあげるという子供の優しい心とどうやって合意形成しましょうか。しかも同一水域で降雨量や中干しの時期といった偶然で取り残された生き物を、ほぼ実害も想定できない状況で。残念ながら私は正解が分かりませんでした。
実は窮地にある小さな命を救って別な広い場所に移してあげよう、と考える子供はそう多くありません。みんな塾や宿題で忙しいし時間が余ればゲームをしたいのです。以前書きましたが子猫が捨てられて雨に打たれていても知らん顔の子供が大半です。本音を言えば親も面倒を背負い込みたくないのです。道端に人が倒れていても同じかも知れません。その少数派の子供にどうやって説明し納得させますか?
画像のような光景は時期になればそこかしこで見られますが、通学路にある用水路の水溜りで干からびた生き物達の死骸を見て子供達は何を思うのでしょうか。二次的自然が人間による撹乱を前提としている以上、子供達が出来る程度のことに理屈付けするよりも人間としてのあり方を優先して心を育てる方を優先したいと思うのです。もちろん外来種の放流は論外としても。

原理原則や正義感では解決できない部分なのです。僅かながら環境に関わる立場として思うのは、頭でっかちの机上の空論が罷り通り現場を知らない方々が余りにも偉そうに能書きを垂れることが環境悪化の大きな原因だと思います。以前もカエルの地域性がどうのという話がどこかでありましたが、「私は研究者だから」という態度に非常な違和感を覚えました。これまで私がお世話になった研究者の方々と異なり、心の問題が決定的に抜けている、はっきり言えば精神が未成熟のまま大人になった方とも思われる発言でした。
ここで優しい気持ちに折り合いをつけてあげなければ同じような大人を再生産するだけでしょう。これは現実問題もさることながら、インターネットが情報収集の主たる手段になっている現状から見ても情報発信としての大きな課題だと思います。

自然は足し引きか

言葉を取り繕っても仕方が無いので明言します。自然には何も足さず何も引かないというスタンスは間違いです。
手付かずの自然を保全するスタンスとしてはその通りですが、我が国の場合人間の管理下にある「二次的自然」が圧倒的大部分を占め、かつ人間の生活環境としての意義も含めて対策が急務なのです。保全生態学のメインのフィールドです。グローバルスタンダードである生物多様性条約、ラムサール条約もこの点区別は付けておりません。
例えばこんな例はどうでしょうか。

(1)上記ラムサール条約では水田環境を明確に「水湿地」と定義し、国内での登録地もあります。水田雑草にはマルバノサワトウガラシ、サンショウモ、スズメハコベをはじめ絶滅危惧種が多数含まれています。しかし農業から見れば「雑草」であり除草、農薬、乾田化により大量に「引く」ことが日常的に行われています。この行為をどう規定しますか?

(2)健全な趣味として釣りがありますが、釣りはまさに自然環境から魚を「引く」行為です。釣った魚を持ち帰って食べたり飼育したり、この法的に問題の無い一般的な趣味をどう制限しますか?

(3)荒廃した湿地の再生手段としてシードバンクによる自然再生があります。放置すれば遷移して荒地になってしまう環境を植生によって再生することは「足す」行為ですが、どう解釈しますか?

(4)沈水植物の自生を守るためにハスやヒシの大規模な間引き(まさに引くことですね)を行っていますが、放置して沈水植物を絶やす結果になったほうが宜しいのでしょうか?

(5)アサザプロジェクトが行っているメインの活動はアサザを里親の元で育成し、霞ヶ浦に「足す」行為ですが否定しますか?

もし自然には何も足さず何も引かないという信念をお持ちの方が私に上記の点をご説明下さるのであれば、どのような専門用語をお使いになっても結構です。この世界で何が行われどのような議論が行われているのかほぼ把握していますので理解出来ます。理解できなければ調べる術も知っています。
しかしこの言葉は残念ながら「この場合は違う」「このケースは例外」といったニュアンスのある標語ではありません。捉え様によっては現在の里山や湖沼を守るために無償で役務提供や原稿執筆を行っている人間を否定する意味に解釈できます。言葉は一人歩きします。言霊です。情報発信者、主体者としては個人であろうとも避けなければならないことなのです。
このような問題に関心を示すのはサンプリングでも趣味のための採集でも何らかの形で自然を友とする方です。ガチガチの規制やモラルで手出しするなという事であれば、自然に関わることも無くなり、つまり関心を寄せる人間も減り、荒廃だけが残ることにもなりかねません。恩恵を得られるから関心を示す、ずっと採集や野遊びがしたいから保全の考え方が理解できる、少しも悪いことだとは考えません。
自然再生、自然保護という概念は確定した方法論に裏付けられているものではありません。前項に書かせて頂いたように時には「心の問題」にも直結します。安易に方向性を断言することは許されないのです。
今回のような真摯な問題提起は大歓迎ですが、他で見られるように明らかな素人がどこかの個人サイトに書いてあるような前提や原則をもとにこの問題について気軽に断言する行為は個人的に嫌悪感を覚えます。ご指摘を頂いた方は「思い」が同じであること、真摯な態度である事が伝わってきます。出来れば書きたくありませんでしたが、このような考え方の持つ危険性も知って頂きたくあえて書かせて頂きました。私なりの「合意形成」です。

ご注意

・本文は特定の個人・団体を批難するものではありません。またこの分野に於いて理解の深度に欠ける方々を啓蒙するつもりもありません。個人・団体のご意見は「意見」として尊重いたします。
・本サイトの文章は引用、翻案など著作権法に抵触しないよう留意し、特定の個人・法人・団体に関し名誉毀損に該当しないように留意しております。本サイトに掲載した私の文章に関し2006年5月29日に私に対する名誉毀損及び著作人格権に抵触する投稿が別なサイトで発生いたしました。ログは保管してありますがサイト管理者との友誼に免じ不問に付しております。次回は不法行為として無警告で刑事・民事両面で法的措置を講じますのでご承知おき下さい。



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送